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日本におけるステンドグラスの歴史
世界の建築における板ガラスの歴史
日本におけるステンドグラスの歴史

日本のステンドグラスの歴史は第一次世界大戦後の戦後景気による隆盛期があり昭和の初めまで続きますが、第二次世界大戦を境に、ガラスも輸入出来なくなり次第に忘れられていきました。戦後になると輸入も自由になり、需要も増え、建築の分野・環境デザインにおいても光の演出というテーマで見直されてきました。

現代のガラスを用いた光のデザインは単に焼き付け・グリザイユなどの技法を用いたステンドグラスだけでなく、ガラス・ブロックや大きなガラス面にエッチングしたもの、コンクリートの中に色ガラス・ブロックを埋め込んだ物など、建築物と一体になり規模も大きなものから小さなものまで色々な試みがなされています。
現在ガラスは国内で不自由しませんが、ステンドグラスに用いるガラスは、多種類の上少量生産の必要から日本では割高のため、ほぼ100%輸入品になっています。

日本にステンドグラスが仕上がった状態で入ってきたのは、慶応元年(1865)フランスのカルメル会修道院から長崎大浦天主堂に「十字架のキリスト」の像が贈られたのが古いとされています。ステンドグラスが日本人の手で作られるようになったのは明治の中ごろになりますが、その先達たちとはステンドグラスの技術を伝えたと言われている宇野沢辰雄、 小川三知、岩城滝次郎です。

明治に入り、当時政府は国家としての形式を整えようと帝国議会議事堂、その他の官庁街の建築計画をたて多数の「お雇い外国人」を雇うことにより西欧化を目指しますが、その中の独人エンデとベックマンは国会議院をはじめ司法省、裁判所などの建築の臨時建築局を組織しました。しかし帝国議会議事堂は何回かの設計案の後中止になり明治建築の大きな部分はエンデやベックマンの紹介でドイツに留学した人々が担うことになります。

その中の宇野沢辰雄はステンドグラスとエッチングの研究を課せられ明治22年帰国、司法省、大審院、海軍省、東京府庁等の建築工事においてそれを実地に応用しました。翌23年に工房を開きステンドグラスの仕事を始めます。現存する代表作としては、横浜市開港記念会館、国会議事堂、三井倶楽部などが残っています。横浜市開港記念会館のステンドグラスは二階のホールと、中央階段の壁面にありテーマは交通です。ホールの入り口左側には渡船風景、右側には駕籠に外国人が乗っている風景が描かれています。中央階段にはペリーの乗船ポーハタン号が制作されています。第二次大戦の昭和18,19年頃は反米思想が強くアメリカのものは全て壊されていたような時代だけに不思議に思います。

宇野沢辰雄のもう1つの代表作である国会議事堂のステンドグラスは独人ベックマンの手によるデザインで16年間の長期にわたって制作されました。その間に宇野沢辰雄の技術は一番弟子の別府三郎を筆頭に木内真太郎、宇野沢秀夫、大立目義重、森勇三、志村博、松本 三郎、三崎弥三郎等に受け継がれこれらの人達が日本におけるドイツ風技術の伝承者であり日本のステンドグラスに名を残す工房作家の1つの主流をなしました。

この様にして、戦争などにより一時衰微した時期も乗り切り現在は300もの工房が出来、それぞれの特徴を生かしながら制作しています。日本のステンドグラスはヨーロッパの宗教建築の中にある荘厳な発光体の様なステンドグラスというよりも公共建築や商業建築の中にあって安らぎを与えてくれる役目を果たしているように思われます。

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